哲学アフォリズム

【改稿 — 漸次執筆中ゆえリスト乱脈失礼(2020/6/9)

  1. 哲学は、「知への愛」であるから、「知を愛さない」こととは区別される。[畳む]⮛
    1. こういうと、すぐさまに*、「知」とはなにか、「愛」とはなにか、という問いが生ずる。[畳む]⮛
        *「すぐさまに」というのは——瞬時に思い浮かぶことで考えてよいがその問いが思い浮かばなくとも差し支えなく——「第一・最初・原理」(アルケー)ということである。
      1. しかし、このいずれの「問」も、「知」であり「愛」であるから、さしあたり「定義」的に答えることができない。
        1. もっとも、ともかく「定義」がなければ次に進めない「知」とうものがありうる。
          1. こうした「定義」を前提とする「知」は、その「定義」そのものへの「問」がそもそもないのだから、「知への愛」を欠いたものである。
        2. 「定義」がないことを前提とする「知」への「愛」が「哲学」である。
          1. では、「哲学」でなにが行われているのか? —— その「問」そのものであり、それに「答」ようとすること、それ以外にない。
          2. したがって、「問」に対する「答」が見いだされたようにみえても、その「答」そのものがまた「哲学」によって「問われる」運命を背負う。
    2. この「問」に直面し、哲学は、まず出発点において、「知」や「愛」が《なにもの》であるのか、それを、そもそも「知」らないし、であるからには「愛」しているわけでもない。[畳む]⮛
      1. それゆえ、哲学は、「知への愛」だ、と称する《偽り》を含みうる。
        1. この《偽り》を「問う」のも哲学である。
          1. したがって、哲学は、みずからが《偽り》である可能性に無自覚となり無謬を称したとたん,哲学であることをやめる。
          2. 世の「科学的」思考は、こうした哲学を含まないかぎり、「定義」的にならざるをえず、したがって《偽り》(欺瞞)である。
            1. 「定義」が示されて、それに納得する「知」の態度を「信仰」という。これは、宗教の領域にある。
              1. 宗教は、《なにものか》についての説明に同意を求めるさい、論理ではなくイメージを提示する。
                1. このイメージには、《なにものか》のみならず、時空やそれを超えるものへの指示、さらにはその真偽・善悪・美醜の判断を伴わざるをえない。
                2. このイメージを支えるには、それらの説明を非論理的に貫徹できるだけの「権威」が必要である。
                3. この「権威」は、「知」の世界を支配していると自認し、それを「信仰」するものによって崇拝される。
                4. 権威」の自認と崇拝の根拠は、論理的なものにはないのだから、イメージによる圧迫以外にない。
                5. とはいえ、みずからの「知」の態度が宗教の領域にありながら、そのことが自覚できないのが宗教の特徴である。それゆえに、宗教においては、「信仰」に疑いなきものが義人であり、「権威」に背かずそれに殉ずること(その「権威」以外には背いて弾圧されること)が法悦となる。
              2. みずからの「知」の態度が宗教の領域にありながら、そのことが自覚できないのが宗教の特徴である。
                1. それゆえ、宗教においては、「信仰」に疑いなきものが義人であり、「権威」に背かずそれに殉ずること(その「権威」以外には背いて弾圧されること)が法悦となる。
              3. これらに照らせば、公理系を抜きには存在しない数学は、宗教と近接している。
                1. ピタゴラスは、この点で正しい姿勢を保った。
                2. 数学(あるいは数値・数量・統計などの数的処理)の特権化は、宗教であり、ア・ロゴス(没論理)である。
            2. 「科学的」と称する「知」が集団化すると、それは「信仰」になる。
              1. なぜなら、「集団化」した「知」は、自明化し「問」を寄せつけないので、論理によらずイメージで「信仰」されるほかないからである。
              2. したがって、「集団化」した「知」への「問」は、哲学によって遂行される以外になく、哲学は、「問」を立てる以外に棲息すべき場がないかぎりは、「集団化」した知に対して反逆的であり、それゆえ反党派的である。
              3. 権威」への反逆は、論理によらずイメージであらかじめ制圧されるから、その「集団」全体に対峙する思考と意志を求めることになる。
              4. 《「科学者」の知見に任せよ》とする言説は、おのずと「権威」主義であり、思考の停止であり、ようするに人間の抹殺である。
                1. 「専門家の意見に従うべきだ」として国家をわざと緊急事態に追い込む者の非人間性が告発されるべきである。
            3. 《なにものか》ではないがそれを表現する「もの」が直示されて、それに納得する「知」の態度を「感銘」という。これは、芸術の領域にある。
              1. 《なにものか》とそれを表現する「もの」とが一致することがある。その「もの」を自然という。
                1. 《なにものか》が、芸術表現者の表現ではなく、表現が指示する対象であることがある。このさい、その表現は、あくまで対象をイメージする媒介手段でしかなく、その対象とはずれるが、それが意図する《なにものか》とは一致する。
                2. 芸術表現者自身が芸術対象となるのが本来の自然主義である。
        2. 哲学は、みずからの《偽り》に対する「問」の無限過程の側面を持つ。
        3. 哲学は、それを始めた時点で、懐疑主義に踏み込まざるをえない。
    3. それゆえ、「知」のあり方、「愛」のあり方、またこれら相互のあり方が明確にならなければならない。
    1. 知を愛の対象とみなさないことがありうるから、知は愛の対象の一部にすぎない。[畳む]⮛
      1. 知が愛の対象でないとき、非知が愛の対象となる。[畳む]⮛
        1. 知と非知との区別が明らかでなければ、この言明は無意味である。[畳む]⮛
          1. ギリシア語 "σοφία" の意味。
            cleverness or skill in handicraft and art, as in carpentry, ...; in music and singing, ...; in poetry, ...; in driving, ...; in medicine or surgery, ...; in divination, ...; 2. skill in matters of common life. sound judgement, intelligence, practical wisdom, etc., such as was attributed to the seven sages, like φρόνησις ...: also cunning, shrewdness, craft; 3. learing, wisdom, ...; speculative wisdom, ...; defined as θείων τε καἱ άνθρωπίνων έπιστήμη, Stoic.2.15; but also of natural philosophy and methematics4. ...; 5. ...〕Liddell and Scott, Greek-English Lexicon, Oxford (1996), p. 1621 f.
          2. 英語 "wisdom" の意味。
            1. 1. Capacity of judging rightly in matters relating to life and conduct; soundness of judgement in the choice of means and ends: sometimes, less strictly, sound sense, esp. in practical affairs: opp. to folly. [b. ... c. ... d. ... e. ...]
              2. Knowledge (esp. of a highe or abstruse kind); enlightenment, learning, erudition; in early use often = philosophy, science. [3. ,,, 4, ... 5. ...]
              OED. 191 f.
            2. 1 a 賢いこと;賢明さ(sagacity);分別,知恵(prudence, discretion):... b 賢い行い:... 2 学問,知識(konwledge, learning):〔3. ...; 4. ...; 5. ...〕 『新英和大辞典』第6版,研究社(2002)
          3. 日本語「知」の意味。
            ち【知】①しること。しらせること。②よくしること。したしくすること。しりあい。「旧―の仲」③(「智」の通用字)さとること。『広辞苑』第6版(2008)
            しる【知る】🈩〘他五〙(「領 しる」と同義)ある現象・状態を広く隅々まで自分のものとする意。①物事の内容を理解する。わきまえる。悟る。… ②見分ける。識別する。… ③ある事柄の存在を認める。認識する。… ④ある事柄のおこることをさとる。推知する。予見する。… ⑤経験する。… ⑥かかわりを持つ。関知する。… ⑦(打消しの形で)できない、不可能の意。… ⑧(打消しの形で)一切それをしないの意。… 〔…〕
            しる【領る・知る】〘他五〙(ある範囲の隅々まで支配する意。原義は、物をすっかり自分のものにすることをいう)①(国などを)治める。君臨する。統治する。… ②(土地などを)占める。占有する。… ③(ものなどを)占有して管理する。占有して扱う。… 
          4. 日本語「賢い」の意味。
            かしこい【賢い】〘形〙文かしこ・し(ク)(「畏かしこし」の転義)①おそろしいほど明察の力がある。… ②才知・思慮・分別などがきわだっている。… ③(生き物や事物の)性状・性能がすぐれている。すばらしい。… ④抜け目がない。巧妙である。利口だ。… ⑤尊貴である。たいそう大事である。… ⑥(めぐりあわせなどが)望ましい状態である。よい具合である。… ⑦(連用形を副詞的に用いて)非常に。はなはだしく。… 
          5. 日本語「賢明」の意味。
            けんめい【賢明】賢くて道理に明らかなこと。適切な判断や処置が下せるさま。…
        2. 知は、「賢い」ものであることを必要条件とする。
          したがって、非知は、「賢くないもの」であり、対義的には「愚かしいもの」である。[畳む]⮛
          1. 「賢」「愚」の区別には困難が伴う。[畳む]⮛
            1. 「賢い」にせよ「愚かしい」にせよ、その「程度」が問えそうである。したがって、そこには、量の問題が介入してくるし、「賢い」ことが「愚かしい」なことになったり、その逆となったりする相互顚倒の可能性がある。
              ここで、「賢い」と「愚かしい」との関係を連続的だとみても非連続的だとみても、それらの一方だと決定できないことがありうるから、
              「賢い」と「愚かしい」とが無差別になる境界がありそうである。
            2. この境界では、知は、「賢い」ものであり、かつ「愚かしい」ものである。
            3. すると、知は、「賢い」ものでありながら、同時に非知として「愚かしい」ものである。
              この境界では、「賢い」ものであるかぎり知であるが、「愚かしい」ものであるかぎり非知である。(★1)
            4. とはいえ、知は、この境界で、「賢い」ものを捨てることができないのだから、けっして「賢い」ものではなくもっぱら「愚かしい」ものとなりきることができない。
            5. したがって、知は、「愚かしい」ものへと顚倒しきらない「賢い」ものであることを必要条件とする。
            6. 知の最低限は、程度の差はあれ「賢い」ものであって、同時に「愚かしい」ものであるときであっても、「賢い」なにかがありうるものである。
              これを否定を介していえば、知は、「愚かしい」ものではない「賢い」ものである。
              しかし、この言い方は、「愚かしい」ものを「賢い」ものと切り離す理解を許すから、より正確な言い方をすれば、
          2. 「賢」「愚」を区別するための根拠を求めることになる。
            1. その根拠は、われわれの「知」に関連すること以外に求めることができない。
            2. しかし、感性(五感[触・味・臭・色・声]によって「知」を根拠づけることは、不可能である。
              1. たとえば、あるものに触れて心地よいと感じたり、なにものかがあると思ったりすることは、「賢いこと」だろうか、「愚かなこと」だろうか。
            3. また、感性の拡張系である経験や統計など(EVIDENS!)によって「知」を根拠づけることは、不可能である。
              1. たとえば、ある人が病気がちであるとか、社会のかなりの人が病気であるとかを察することは、「賢いこと」だろうか、「愚かなこと」だろうか。
            4. とはいえ、そうした感性やその拡張系(以後簡単に「感性系」「経験系」「統計系」などという。)をさしおいても「知」を根拠づけることは、不可能である。
              1. たとえば、病気の人やら社会やらが、みずからの状態(感性系)を抜きに健康を希望(祈願)することは、「賢いこと」だろうか、「愚かなこと」だろうか。
            5. 「賢」「愚」の区別は、そうした感性系「としての=に対する」(für [D])「感性系を超えた知」の働きによるしかない。
              したがって、「知」は、感性系「としての=に対する」「超感性知」であるほかはない。
        3. 知は、「愚かしい」ものを斥け、「賢い」ものとなろうとすることである。[畳む]⮛
          1. 知は、そのなかにある「愚かしいもの」を区別することができるからこそ、これを斥け、「賢い」ものとなろうとする。
          2. とはいえ、知は、そのなかにある「愚かしいもの」を区別することができずこれを斥けることができなければ、「賢い」ものとなれない。
            1. すると、知は、「愚かしい」ものとなる。
            2. こうなれば、知は、非知である。
            3. よって、知と非知とが矛盾し、知の概念自体が崩壊し消滅する。
              1. だが、もともと、知は非知と共存し両立する。(cf.★1)
              2. だとすれば、知の概念自体がもともと成り立っていない、とみることもできる。
              3. すなわち、知と非知を区別することができない、ということになる。
              4. よって、
        4. しかし、「賢い」(知)ものと「愚かしい」もの(非知)とを区別することができず、「賢さ」が成り立たないからには、「知が愛の対象でないとき、非知が愛の対象となる。」という言明は無意味である。
      2. 知と非知とが無差別なので、愛の対象だけに焦点が絞られた。
        1. 対象は、「愛すべきもの」と、「愛するまでもないもの」とに区別できる。[畳む]⮛
          1. ギリシア語 "φῐλέω" の意味。
            love, regard with affection...; 2. treat affectionately or kindly esp. welcome, entertain a guest, ...; 〔3. ...;〕4. show outward signs of love, esp. kiss5. ...; 6. ...; 7. ...;〕II. after Hom., c. inf., love to do, be fond of doing, and so to be wont or used to doLiddell and Scott, Greek-English Lexicon, Oxford (1996), p. 1933.
          2. 英語 "affection" の意味。
            1. I. Generally and literally 1. The action of affecting, acting upon, or influencing; or (when viewed passively) the fact of being affected. II. Of the mind. 2. An affecting or moving of the mind in any way; a mental state brought about by any influence; an emotion or feeling. [3. ...; ~ 7. ...; III. ...; ~ V. ...;] OED. 153 f.
            2. 1 愛情,情愛,愛;好意(goodwill):2 a⦅古⦆感情(emotion, feeling):2 a〘心理〙感情⦅快・不快などの気持ちまたは怒り・恐れ・喜びなど激しい感情としての情動などを包摂する;cf. affect3 1, conation, cognition⦆:〔3. ...; ~ 9. ...;〕 『新英和大辞典』第6版,研究社(2002)
          3. 日本語「愛」の意味。
            あい【愛】①親兄弟のいつくしみ合う心。広く、人間や生物への思いやり。②男女間の、相手を慕う情。恋。③かわいがること。大切にすること。④このむこと。めでること。⑤愛嬌。⑥〔仏〕愛欲。愛着。渇愛。強い欲望。十二因縁では第八支に位置づけられ、迷いの根源として否定的にみられる。⑦キリスト教で、神が、自らを犠牲にして、人間をあまねく限りなくいつくしむこと。→アガペー1.⑧愛蘭(アイルランド)の略。『広辞苑』第6版(2008)
        2. 「愛すべきもの」であるかどうかは、さしあたり、対象に依存しない。なぜなら、愛するのはあくまで「私」であって、「私」以外は愛さないかもしれないから。
        3. 「私」が「愛するもの」を「私以外」にも「愛すべきもの」として主張することがある。しかし、この主張が受け入れられるかどうかは、その主張を聴いた人次第であって、「愛すべきもの」とされた対象に依存しない。
        4. 「私」と「私以外」とが「愛すべきもの」を共通に主張するとき、「私」と「私以外」とは、共通の対象の「愛好者」である。
      3. 以下無吟味
        1. 知が愛の対象でないとき、無知が愛の対象であるか?
        2. あるいは、愛の対象は、知でも無知でもないかもしれない。
        3. すくなくとも、知と愛が無関係である可能性がある。
        4. 「知への愛」に普遍性がない疑いがある。
        5. 「知への愛」に普遍性があるなら、ソクラテスの死はなかったであろう。
      4. 愛の対象に多様性があるなら、「知への愛」の特殊性が問題になる。
        1. 愛の対象が問われないなら、愛の行為が問われるべきである。
        2. 愛はいかなる行為か?
  2. 哲学が「知を愛さない」ことがありうるなら、
    この場合、哲学は、「知を愛する」にもかかわらず「知を愛さない」ということでもある。
    1. これは矛盾しているので「ありえない」、とする排中律的な立場もありうる。(すなわち、「『哲学』は『知を愛する』以外にない。」と称する立場である。)
    2. しかし、これは、「知」と「愛する」とを分析したときには、簡単に決めつけられない。
      1. すなわち、「知」にはある姿(Daseyn, Realität, Form, Objekt, Gegenstand)があり、その姿を「愛する」か「愛さない」かは、哲学をするがわ(Werden, Idealität, Inhalt, Subjekt, Stand)の「好み」(選択)による、という疑いを容れうる。
      2. したがって、「知」と「愛する(愛さない)」とは、相関的である。
      3. だとすると、ある「知」のあり方を示したとき、それに応じて、その種の「知」を「愛する」者と「愛さない」者との区別が生ぜざるをえない。
      4. ある「知」のあり方を「愛する」者は、その種の「知」に利害関心(Interesse)がある者である。これに対し、それを「愛さない」者は、それに利害関心がない者である。(それを「愛する」とも「愛さない」とも定めない者もいるだろう。これを考慮すれば、あえてそれを「愛さない」とする者は、それを「愛する」ことに敵対する者、すなわちそれを「憎む」者である。)
      5. この、ある「知」は、さしあたり無規定である。
  3. 「知を愛さない」とは、その「知」によるのか、その「愛」によるのか、あるいはそのいずれでもないのか。
  4. 「知を愛する」という言明そのものが理解されない場合も考える必要がある。
  5. 「人」が愛すとも愛さないともする――あるいはその言明自体を理解するともしないとする――「知」なるものを愛する者(哲学者)は、そのような「人」ではない。
【旧稿】
  1. 哲学は、思考プロセスであって、その思考成果物は、そのプロセスから遊離した定在にすぎない。
  2. 哲学の方法には、議論しかない。このことは、議論の対象とならないものを哲学から排除するものではない。むしろ、哲学の本領は、従来議論の対象とならないものの議論化にある。
  3. 従来議論の対象とならないものの議論化は、それが起ること自体が対象への批判であり、対象そのものの保守を必ずしも保証しないから、その対象の破壊、革新への一歩となることがある。
  4. こうした哲学の開始の動機を「驚き」と語ることがある。
  5. 議論化は、議論に参加する者の関心によって起る。したがって、哲学は、その方法論上の制約により、関心の「特殊」性に呪われざるをえないし、その思考およびその成果物全般にわたって、「特殊性」の刻印を受けざるをえない。だから、哲学は、「一般」人にとっては、はるかに疎遠なものとならざるをえない宿命を背負う。
  6. 翻って言えば、「一般」人は、議論化を行わないし、それゆえ思考をしない。一般人と自認する者が、議論化を行ったり、それゆえ思考をしたりするならば(あるいはそのように主張するならば)、それはこうした一般人の概念に矛盾するから、その者が特殊な人であるとするか、あるいは、一般人の概念を刷新する必要がある。しかし、今日の一般人も、ソクラテスに毒杯を仰がせたアテナイ人の右に出るとは思われない。
  7. 議論は、議論対象の直接態を観念的に諸契機へと解体し、その諸契機の相互の論理関係を明確化することによって当初の直接態を観念的に再構成する。
  8. 解体された契機は、最初の直接態のそれなのだから、直接態のみを真とみなせば、契機は偽でしかないだろう。しかし、偽でしかない契機から直接態の真は構成できないだろう。したがって、契機は、なんらかの限定をつけようとも、真であるほかはない。命題の価値を真か偽かのいずれかに帰する主張は、硬直的であり、プロセス性の観点からは、偽である。排中律は、偽りの原則である。
  9. 議論が諸契機の相互の論理関係を明確化するというのは、議論に対する要請にすぎない面があるから、それを前提とする「議論」論は、実際には、一面的である。議論は、「一般」人にとって、要請される意味で遂行されないのだから――したがって議論化をしないのだから、没論理に展開して差し支えないものであり、実際の議論は、実際に没論理に行われる。哲学の方法としての議論も、例外ではない。というのも、哲学が用いる方法としての議論が、実際には没論理にも行われうる以上、一般に哲学を自称する議論だけを特権的に論理的であるとするいわれがないからである。したがって、哲学自身が、要請される議論に一致しているか否かにかかわって、吟味にさらされる。
  10. 観念的な諸契機がその論理関係もろともただちに再構成できる議論対象は、再構成された直接態であって、思考プロセスから遊離した思考成果物としての定在である。したがって、この議論対象は、かつて思考されたという意味では試され済みだが、今現在議論されていない点では保証のないものでしかない。
  11. 保証のない議論対象には、再構成以前のものと、再構成以後のものを区別することができるかもしれないが、その区別は本質的にはどうでもよいものである。再構成以後の議論対象は、諸契機と論理関係を内容としている点でより発展しているとみることもできるが、より硬直化し欠陥に気付かないかぎりで退歩しているとみることもできよう。これに比べれば、再構成以前の議論対象は、諸契機と論理関係が内容となっていない点でより未熟であるが、今後の展開ということではより柔軟な善さをそなえている。しかしながら、その柔軟さは、実のところ展開不要の雑味をも含みこんだものであり、無用の戯れの面もあるし、展開すべきことを失念した一面性に陥ることもある。
  12. 議論が開始されたとき、議論する者と議論対象が分裂する。したがって、議論の開始直前までは、議論する者と議論対象のそれぞれの直接態は、未分化に統一している。それゆえ、議論の開始時点では、議論する者と議論対象のそれぞれの直接態は、本来的な直接態というべきものではなく、分裂のさせ方によって媒介されており、いずれも媒介された直接態である。しかし、こうした媒介性は通常背景に退いており、それを明確化すること自体が議論に属する。
  13. 議論は、本質的に、独語でないから、討論とならざるをえない。討論によって、議論する者とその議論を聴く者とが分裂する。この両者は、時に応じて所を変えることがあるし、仮想的な者であることもある。この分裂については、前項と同じ事態が生ずる。
  14. 討論では、議論する者とその議論を聴く者との間で、同意が生ずるか、拒否が生ずるか、あるいは保留が生ずる。「真である」、「正しい」、「善い」、「美しい」などの評価語は、対象に関してこれらの同意を表現するために導入される。これらの評価語は、議論の対象に関していわれるので、討論者たちを抜きにした対象それ自体の属性であるかに扱われるが、実際は、対象それ自体についてさしあたり何ごとも語っていない。
  15. 同じことだが、「真である」、「正しい」、「善い」、「美しい」ことは、議論を抜きにしてありえないから、議論を共有する社会から離れてそれ自体として独立して存在することがない。これらの評価語を用いる認識は、社会の認識に従属する。この社会の認識に反旗を翻す認識も、その社会の認識の否定態であることによって、社会の認識に規定されている。
  16. 評価語は、主張され、要求される。したがって、それは、主張し要求するものの利害関心にかかわる。
  17. 評価語を主張し要求する必然性をはらむ討論者は、そのように評価する対象を生み出す行為をする者であり、その行為を維持しようとするかぎり、議論にかかわらず、その評価語を主張し要求せざるをえない。したがって、その評価の根拠は、最終的に行為すること自身に還元され、その根拠に関わる言説については、恣意的であることができるから、そのように主張し要求する討論者は、みずからの議論に関し真面目になる必要がない。「私を見よ!」
  18. 評価語を主張し要求する必然性をはらまない討論者は、そのように評価する対象を生み出す行為をしないものであり、ただその行為を観察するものであるかぎり、議論以外に評価語を主張し要求する根拠を持たない。したがって、その根拠にかかわる言説については、恣意的であることができず、そのように主張し要求する討論者は、みずからの議論に関し真面目にならざるをえない。「本を読め!」
  19. 評価語が討論者たちの同意をめぐって導入されるかぎり、少なくとも、評価語は、討論者たちが議論の対象に向かう関係ないし態度を表現しているし、討論者相互の関係ないし態度を表現している。この事態を簡単にイメージする助けのために、前者を垂直的評価関係、後者を水平的評価関係と呼ぶことが許されよう。
  20. 評価関係は、垂直的なものであれ水平的なものであれ、個別の討論者(評価者)にブーメランの如く折れ返り反省的に還帰する。たとえば垂直的に、ある行為を「善美である」とするときは、ある行為があたかもそれ自体として「善美」であるように設定しながら、ある行為は実のところそれ自体として「善美」であるかどうかは不定であるから、ある行為が「善美」であるというよりは、そのように設定する評価者の側が「善美」である。評価者の側が「善美」であるという事態は、たとえば水平的に、他の別の評価者が同一の行為を「醜悪」と評価するとき、「善美」と評価した者が、みずからは「善美」な観点を持っているが、他の別の評価者は「醜悪」な観点をもっていると批判し、みずからの観点を産み出す自分自身が「善美」であると誇ることからして明白である。
  21. 評価関係は、たとえば垂直的に、評価者と対象との直接的な一体性を分裂させ、対象に評価語を設定しながら、評価語を評価者に折れ返り反省的に還帰させることによって、評価者と対象との直接態を媒介的に再構成する。こうした評価関係では、評価者と絶対的に分裂させられた対象については、何ごとも語っていない。しかしながら、評価者と対象とが一体とみなされるときには、その評価者の身に即して、対象についてなにかしら語られていることがある。
  22. 評価語は、目的の位置にある。
  23. 評価は、関係において異なるのが通例である。ある関係において「善美」であることが、別の関係において「善美」でないというように。したがって、一定の評価、すなわち目的を基準にしてあることを選択しようとするとき、それに合致した一定の関係もまた選択することになり、別の関係を斥ける。
  24. 哲学的討論には、審判がない。よしんば審判と称する者がいたとしても、議論する者のひとりに成り下がるであろう。それは、哲学の方法には議論しかないからである。それゆえ、当然ながら、哲学では、審判を権威づけるルールブックとなるような特権的な学説や主義が原理的に存在しえないし、それを樹立する試みは破産する運命におかれる。
  25. 一般に、説得し、教育しようとするとき、それを行なう者は審判の位置にあり、自己絶対化する。つまり、その審判からは相対性の外観が消し去られなければならない。ということは、哲学は、一般的に行なわれるような説得をしたり、教育をしたりすることができないということでもある。
  26. 哲学以外の領域では、「真である」、「正しい」、「善い」、「美しい」などの評価語を対象それ自体の属性として扱い、対象それ自体の内容とみなすことがあるし、それらの評価を固定する審判がたち現われることがある。哲学以外の領域でこのようなことが行なわれるのは、非哲学的要請によるもので、その領域でも哲学が通用するところでは、このようなことは行なわれない。
  27. 哲学にとって、非哲学的なものは、議論の対象となる。こうした議論が開始される以前では、哲学と非哲学の境界は不明であり、哲学は非哲学と一体となっている。
  28. 哲学的なものと非哲学的なものとの境界は、評価語の扱い方に関するかぎり、自由と必然との間にある境界と理解することもできる。なぜなら、哲学的なものには、審判がないのだから、評価語を固定する何らの必然もないわけだし、非哲学的なものには、審判がいるのだから、評価語をルーズにする自由が失われているからである。ただし、哲学と非哲学の境界が不明である事態に関するかぎり、さしあたり自由と必然の間にある境界は不明といわざるをえない。こうした境界が不明な事態では、自由を必然としてしまうのか、必然を自由としてしまうのか、あるいは自由と必然とが一致しているのか、不一致であるのかは、これだけでは理解できない。


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記事 Ver.2.0.0.19
更新 2017/3/22
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KAMIYAMA, Nobuhiro