「自分は元来が小説的の人間じゃないんだが、まだ年が若かったから、今まで浮気に自殺を計画した時は、いつでも花々しく遣って見せたいと云う念があった。短銃でも九寸五分でも立派に――つまり人が賞めてくれる様に死んで見たいと考えていた。出来るならば、華厳の瀑まででも出向きたいなどと思った事もある。然しどうしても便所や物置で首を縊るのは下等だと断念していた。その虚栄心が、この際突然首を出した。どこから出したか分からないが、出した。詰り出すだけの余地があったから出したに相違あるまいから、自分の決心は如何に真面目であったにしても、左程差し逼ってはいなかったんだろう。然しこの位断乎として、現に梯子段から手を離しかけた、最中に首を出す位だから、相手も中々深い勢力を張っていたに違ない。尤もこれは死んで銅像になりたがる精神と大した懸隔もあるまいから、普通の人間としては別に怪しむべき願望と思わないが、何しろこの際の自分には、ちと贅沢過ぎた様だ。然しこの贅沢心の為に、自分は発作性の急往生を思いとまって、不束ながら今日まで生きている。全く今わの際にも弱点を引張っていた御蔭である。」 夏目漱石『坑夫』、岩波文庫、2014年、235。

「一体お玉の持っている悔しいという概念には、世を怨み人を恨む意味が甚だ薄い。強いて何物をか怨む意味があるとするなら、それは我身の運命を怨むのだとでもいおうか。自分が何の悪い事もしていぬのに、余所から迫害を受けなくてはならぬようになる。それを苦痛として感ずる。悔やしいとはこの苦痛を斥すのである。自分が人に騙されて棄てられたと思った時、お玉は始て悔やしいといった。それからたったこの間妾というものにならなくてはならぬ事になった時、また悔しいを繰り返した。今はそれがただ妾というだけでなくて、人の嫌う高利貸の妾でさえあったと知って、きのうきょう「時間」の歯で咬まれて角が刓れ、「あきらめ」の水で洗われて色の褪めた「悔しさ」が、再びはっきりした輪郭、強い色彩をして、お玉の心の目に現われた。お玉が胸に欝結している物の本体は、強いて条理を立てて見れば先ずこんな物ででもあろうか。」 森鷗外『雁』、岩波文庫、2010年、51頁。

「わたくしは若い時から脂粉の巷に入り込み、今にその非を悟らない。或る時は事情に捉われて、彼女たちの望むがままに家に納れて箕帚を把らせたこともあったが、しかしそれは皆失敗に終った。彼女たちは一たびその境遇を替え、その身を卑しいものではないと思うようになれば、一変して教うべからざる懶婦となるか、しからざれば制御しがたき悍婦になってしまうからであった。」 永井荷風『濹東綺譚』、岩波文庫、1991年、126頁。

「モイラにたいした思考力がないことは、大人になった現在も、同じことである。感覚だけで辺りを見、感覚だけで生きていて、それで自分は素晴らしく生きているのだと、信じている。感覚だけで、自分は生きているのだと信じているのは、モイラだけに限ったことではなくて、虫や蛇や猫、女、なぞがそういうものである。彼らは例外はあってもみな美しい。思考力を持っているように見える女はそれを観念として、上皮からくっつけているか、または感覚的に思考を捉えているのに過ぎない。」 森茉莉『甘い蜜の部屋』、ちくま文庫、1996年、13頁。

「『よし。――その対馬名物の烏は、何色をしとるか。』
『黒くあります。』
『ふむ。もし班長がその烏の色は白いとお前に言うて聞かせたら、お前はどうするか。』
『はい……?』
『烏の色は白いぞ、と上官がお前に教えたら、お前はどうすりゃええか、と聞いとるんじゃ。』
『はい。……そんなら、その、阿比留二等兵は、烏の色は白いと言います。』
『そうじゃ。それが軍人精神の絶対服従じゃ。ええか、みんな。上官が烏の色は白いと言うたからにゃ、烏の色は白いとじゃ。そんなときは誰も黒いと言うことはでけん。黒いと言うても、それで通りゃせん。それで通ると勘違いしとるごたぁる奴は――そげな軍人精神のなっとらん兵隊は、遅かれ早かれ思い知らせられるぞ。むかしならそげな誤差の太い奴はその場で半殺しの目に会わされたとじゃが、……このごろはちっとばかし手間取るごたぁる。それじゃけんちゅうて、ええ気にゃならんほうがええ。』」 大西巨人『神聖喜劇』第1巻、光文社文庫、2002年、363頁。

「さすがに春の燈火は格別である。天真爛漫ながら無風流極まるこの光景の裏に良夜を惜しめとばかり床しげに輝いて見える。もう何時だろうと室の中を見廻すと四隣はしんとしてただ聞こえるものは柱時計と細君のいびきと遠方で下女の歯軋りをする音のみである。この下女は人から歯軋りをするといわれるといつでもこれを否定する女である。私は生まれてから今日に至るまで歯軋りをした覚えは御座いませんと強情を張って決して直しましょうとも御気の毒で御座いますともいわず、ただそんな覚は御座いませんと主張する。なるほど寐ていてする芸だから覚えはないに違いない。しかし事実は覚がなくても存在する事があるから困る。世の中には悪い事をしておりながら、自分はどこまでも善人だと考えているものがある。これは自分が罪がないと自信しているのだから無邪気で結構ではあるが、人の困る事実は如何に無邪気でも滅却する訳には行かぬ。こういう紳士淑女はこの下女の系統に属するのだと思う。夏目漱石『吾輩は猫である』、岩波文庫、1990年改版、173頁以下。

「罪があるのは、むろん、中央の指導部ではない。いや、地方の指導部でさえない! ここが重要なところである。もし「しばしば外からやってきた同志たち」(党員の指導者たち)が仕事についての正しい観念をもっていないならば、彼らのために「問題への正しい対処の仕方を教えてやるのは」専門家でなければならなかったのである! ということはつまり、「指導部には罪がなくて……罪があるのは、計算し、その計算をまたやり直し、計画を立てた連中」だということである(元手がなくて食糧や燃料をいかに生産するかという計画)。罪があるのは計画を強制した者ではなく、作成した者なのである!」

「蓋し維新の政変の如き大事は、決して屡帝国に生ずるものではない、然れども人の世に立つて斯かる場合に処するには、如何なる覚悟を有し、如何なる行動を為すべきかという問題は、最も講究を要すべきものである。而して私は此問題に対して、一言以て之を掩ふ事が出来る、即ち私を棄てゝ公に徇ふにあると思ふ。畢竟我が国民に貴ぶ所のものは、国家に対する犠牲的観念である。忠君愛国も其神髄は大なる犠牲的観念の結晶にある。大なる犠牲的観念は、私を捨てゝ公に徇ふにあるが故に、其功労の世間に表はれる事を求めず、其苦心に対する報酬をも望まぬのみならず、他より毀損せられても、他より侮辱せられても、毫も其心を動かす事なく、一意国家の為に身命を擲つて顧みざる偉大なる精神が即ち是れである。」

「朝は軍医の回診があった。軍医は内科外科各一人、衛生兵と二世通訳を連れて回診する。別に平癒患者から採用した通訳二名、衛生兵助手数名も付き従う。
これら日本人の勤務員(と彼らは自ら呼んでいた)が配膳係と共に、粗暴不親切横領等、あらゆる日本軍隊の悪習を継承していたことは言うまでもない。しかし私は今ここで彼らの悪事を数え立てることはしないつもりだ。何等かの意味で私自身のさもしさを露呈せずには、彼等の下劣さは描けないからである。しかも或いは彼等は単に専制に馴れた日本人の、特権に対する弱点(特権を持たない者は持つ者に媚び、持つ者はそれを濫用せずにはいられないという弱点)の現われの一般的場合にすぎないかも知れないのである。」

「それに、サーヴィスが下手だとおっしゃる貴方の目が、いつ私をくびきるかも判らないし、なるべく、私と云う売り子に関心を持たれないように、私は下ばかりむいているのです。あまりに長いニンタイは、あまりに大きい疲れを植えて、私はめだたない人間にめだたない人間に訓練されていますのよ。あの男は、お前こそめだつ人間になって闘争しなくちゃ嘘だと云うのです。あの女は、貴女はいつまでもルンペンではいけないと云うのです。そして勇ましく戦っているべき、彼も彼女もいまはどこへ行っているのでしょう。彼や彼女達が、借りものの思想を食い物にして、強権者になる日の事を考えると、ああそんなことはいやだと思う。宇宙はどこが果てなんだろうと考えるし、人生の旅愁を感じる。歴史は常に新しく、そこで燃えるマッチがうらやましくなった。」

「極東をめがけて来た欧羅巴人の中には、稀に許されて内地に深く進んだものもないではない。その中にはまた、日本の社会を観察して、かなり手厳しい意見を発表したものもないではない。欧羅巴文明と東洋文明とを比較して、その間の主なる区別は一つであるとなし、前者は虚偽を一般に排斥するも、後者は公然一般にこれを承認する。日本人や支那人にあっては最も著しい虚言が発覚しても恥辱とはせられない、かくまで信用の行わるることの少ないこの社会に、いかにして人生における種々の関係が保たるるかは、解しがたい極みであると言うものがある。日本人の道徳、及び国民生活の基礎に関する思想は全く欧羅巴人のそれと異なっている、その婦人身売りの汚辱から一朝にして純潔な結婚生活に帰るようなことは、日本には徳と不徳との間に何らの区劃もないかと疑わせると言うものがある。」島崎藤村『夜明け前』第二部(上)、岩波文庫、2003年改版、82頁以下。

「志賀直哉は、言語を、スウィッチによって、右に切り換えれば日本語、左に切り替えればフランス語というように、切り換えのきく装置とでも見ているかのようです。「文化が進む」という場合の「文化」とは、内実何なのか。おそらく彼は『源氏物語』など読んだことがないのでしょう。志賀直哉には「世界」もなく、「社会」もなく、「文明」もありはしなかった。それを「小説の神様」としたのは大正期・昭和前期の日本人の世界把握の底の浅さのあらわれであるでしょう。
では志賀直哉は本質的に何だったのか。「写生文の職人」だったのではないか。名工でも職人は世界のことなど考えに入れない。たしかに彼は明晰な文章を書いた。しかし、文章が明晰に書けることと、何を書き、何を扱うかとは、別のことでありうるのですね。だから、文章の書き方だけを考えていても、そこにはおのずから限界があることも心得ておく必要があるということになります。」大野晋『日本語練習帳』、岩波新書、1999年、109頁以下。

「また党派には保守党と自由党と徒党のようなものがあって、双方負けず劣らず鎬を削って争うているという。何の事だ、太平無事の天下に政治上のけんかをしているという。サア分からない。コリャ大変なことだ、何をしているのか知らん。少しも考えのつこうはずがない。あの人とこの人とは敵だなんというて、同じテーブルで酒を飲んで飯を食っている。少しも分からない。ソレがほぼ分かるようになろうというまでには骨の折れた話で、そのいわれ因縁が少しずつ分かるようになって来て、入り組んだ事柄になると五日も十日もかかってやっと胸に落ちるというようなわけで、ソレが今度洋行の利益でした。」福沢諭吉『福翁自伝』土橋俊一校訂・校注、講談社学術文庫、2010年、144頁以下。